発露

推しとわたしと愛憎喜劇

神木隆之介という氷の像のお話

 

※この記事は、私という色眼鏡を何重にもかけた気持ち悪い神木ヲタクによる神木隆之介の幻影のお話です。

 

 

 

今年1月に発売した神木くんの写真集『サンセリテ』内の1万字インタビューを読んだ時から、役者・神木隆之介の宿命について考えることを止められない。
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(因みにわたしは10冊買った)


神木ヲタの皆さんは、あのインタビューを読んでどんなことを感じたんだろう。

読了後、わたしが一番最初に感じたことは正直言うと【絶望】だった。


番組や雑誌で散々語られてきたことだが、神木くんは生まれた時に大病を患った。生存率は僅か1%だったというそれから奇跡的に命を繋いだ神木くんは、この先どうなるか分からないとお医者さんに言われていたらしい。だからこそ「生きている証が欲しい」とお母さんは神木くんを芸能の道へ導いた。この経験が神木くんの人生観の核となっている。彼はインタビュー内でこう語っている。

乱暴な言い方をすると、1回死んだようなものですから。「2回目の人生だから、しっかり生きないと」と思っています。
だからといって、日常で死を意識して生活しているわけではないんです。「いつ死ぬかわからない」というのはみんな一緒ですし。でも、なんとなく、僕は長生きしない気がしています。
それでも、「なぜ僕だけがこんな目に!」と自分の境遇をうらめしく思ったことはありません。死ぬ間際にどんなふうに思うのかはわからないけれど、死ぬときは、僕の人生の役目を全うできたということなんだと思います。

きっと神木くんは本来ポジティブな意味でこのようなことを言っているのだと思う。でも私には、自分と同世代にしては自分の人生や生死について達観しすぎているように感じて怖かった。
その後、インタビューはこのように続く。

「生きること=その人なりの役割を果たすということ」という考えは、なぜか小さいころから持っていました。子どものころは、「演技することが自分の使命だ」と公言していたんです。(中略)
演じることは楽しいです。もちろん仕事として大変なところはあるけど、自分が楽しいと思える職業に最初から当たれたことはよかったなと思います。
でも、生涯この仕事をしているかはわからないです。なにがなんでも、しがみついてでも役者をやり続けたい、というような思いはないんです。

神木くんのお芝居を観られなくなる未来があることを、私は一度も考えたことがなかった。神木くんは「芝居を使命だ」と、何の疑いのなくそう思っているものだと思い込んでいた。

そもそも神木くんは役者の前に24歳男性という一個人だ。同い年の私だって今の仕事を死ぬまで続けるつもりはないし、そう考えることは何らおかしいことでは無い。でも神木くんとお芝居は私の中では切り離せないものだから、何が何でもやり続けたいわけではないなんて言葉を本人の口から聞くのは青天の霹靂だった。

 

『サンセリテ』の1万字インタビューでの神木くんは、総合すると希望ある明るいお話をしているし、先程引用した箇所も本来はポジティブな意味であって何か含みを持たせて発言した訳ではないだろう。人生の様々な選択肢に常に目を向けるのは、物心つく前から芸能界に居ながらそう出来ることではないと思う。神木くんにそういう感覚があること自体が尊いことなんだって、そんなこと私だって分かってます。
でも、じゃあ、【役者・神木隆之介】を好きで彼のお芝居を死ぬまで見られると信じて疑っていなかった私の気持ちはどう折り合いをつければ良いのだろう。もやもやと燻る感情はなかなか消えてくれなかった。

 


突然だが、このインタビューを読む前から、漠然と神木くんは【良くも悪くも博愛主義】だと感じていた。人懐こく、誰とでも仲良くれて人に好かれがちな神木くんだが、一方で誰かの特別にはなりたがっていないのではと懐疑する気持ちがあった。
彼はいつでも笑顔だし、好奇心旺盛で人見知りしなくて、たくさんの業界人から神木くんに対する好意の声を聞いてきた。いろいろな人が神木くんについて語ってくれる。神木くんは笑顔を崩さない。にこにこ笑って好意の声を聞いている。その笑顔を見る度、神木くんの本心はどこにあるんだろうと思ってきた。ふとした時に見え隠れする彼の底知れなさが掴めない。

でも『サンセリテ』で彼の達観した死生観・人生観が明らかになった今、漠然と思っていた【神木くん=博愛主義】という考えは決して間違いではなかったことを確信した。極論、彼は究極の博愛主義者だ。「一度死んだ身だから」と話す神木くんは「2回目の人生をしっかり生きて」楽しんでいるし、ファンへの感謝を常に忘れず言葉にしてくれる姿からはファン含め多くの人間を愛してくれていることが窺える。だが一方で「自分は長生きしない」 と話す神木くんは、確固たる境界線を設けてそれ以上の領域に踏み込ませてくれない。愛することで線を引く、博愛主義者だ。

 


『サンセリテ』の1万字インタビューを通して、私の中の神木くん像が変化した。


神木くんは、【誰の手にも届かない博愛主義の神木くん】で【役者の道を好きでいてくれるけど、決して終の住処にする気はない神木くん】になった。

 

 

3月のライオン』でのプロモーション露出が続いた時、神木くんはたくさんの雑誌に出てくれた。その中でも忘れられないのが『TVガイドperson』さん。ASMART | 書籍 TVガイド PERSON VOL.55 2017年 4月号
『サンセリテ』を読んで以降、わたしは「神木隆之介という宿命」について考えるようになっていた。神木くんの死生観や人生観に打ちのめされ、勝手に作り上げた博愛主義者の神木くんという幻影に取り憑かれていた。簡単に言うと拗らせて病んでた。好きだと思う気持ちは変わらないのに好きだと思うことが辛くなって、神木くんを追うのが怖くなった結果、露出から敢えて目を背けていた。でも、神木くんが語ってくれる言葉の中に彼の本質を見たくて、彼の言葉が形として残る雑誌だけは買い続けていた。
『TVガイドperson』さんが作り上げた神木くんの単独表紙を、多分私は一生忘れられない。真っ白な世界に真っ白な服を着た神木くんが居る。コピーは「神木隆之介という宿命」。嘘みたいなほんとの話だけど、一言一句違わず、私がずっと考えに考えていた命題そのままの言葉だった。
インタビューの中で神木くんは【宿命】に関して多くを語ることはなく、やはりというか何というか『3月のライオン』のお話が大半を占めた。でも私にはあの表紙だけで十分だった。あの表紙を手にしただけで、『サンセリテ』以降じくじくと拗らせていたものがすっと消えた。吹っ切れたというより一種の諦念だったのかもしれない。私は神木くんに全面降伏した。

3月のライオン 前編』が公開した日、私は以下のツイートを残している。

 

私は私が作り上げた神木くんの幻影を受け入れることにした。
【誰の手にも届かない博愛主義者】で【役者の道を好きでいてくれるけど、決して終の住処にする気はない】神木くんは、自分のことを「長生きしないだろう」って他人事みたく話すし、私という一ファンは神木くんの人生のエキストラにもなれないけれど、それでも神木くんが役者という選択を続けてくれる間は、私も神木くんへの自己満の気持ちを続けようと心に決めた。

 

 

 

ここからは、今回のブログタイトル【氷の像】の真意についてまとめたい。

 


神木くんの24歳の誕生日にお祝い記事を書いた。
誕生日の君に寄せる - 発露
この記事の中で、私は神木くんにやって欲しい仕事について書いているのだけれど、これが以外と思い付かない。記事中にもあるように、既に色々な作品で色々な役を演じる神木くんを観れているから心が満たされているんだと思う。そこで気付いた。「芝居が好き」という土台があって彼を好きになった筈なのに、神木くんのお芝居を観たいと渇望する気持ちがさほど湧いてこない。舞台に立って欲しい気持ちは今も昔も変わらず神木くんに対して1番渇望していることだと思う。でも、お芝居を観たいという感覚というよりは、神木くんに【舞台】というフィールドに立って欲しいというのが先行している自覚がある。
じゃあ私は何を以って神木くんのファンを名乗っているんだろう。神木くんに何を望んでいるんだろう。

 

その答え、実は最近漸く思い至った。

これらのツイートに私の神木くんへの気持ちの向け方が凝縮されている。

 

私は、神木隆之介が生きている実感が欲しい。生きてるんだっていう生々しさを感じたい。
でもこれはプライベートを垣間見れば叶う類のものではない。それで解決するような本質の話ではないし、そもそも神木くんのプライベートを暴くことなんて最初から求めてない。

 

 

さて、ここで「神木隆之介」という氷の像の話をしよう。

 

神木隆之介という一個人を核として、神木くんは演じる役の数だけ氷の像を作る。核を覆うように氷の像を作り上げては溶かし、また作っては割って砕く。それを繰り返して、氷の像は役柄や作品によっていろいろな形に姿を変える。時には作品に携わるカンパニーの方の力を借りることもあれど、全ての氷の像は神木くん自身の手によって削られ磨かれることで形を成していく。
氷の像を作る時、神木くんは自らの手を痛めながら作り上げるだろう。何かをきっかけにして、核と氷が張り付いてしまうこともあるだろう。強固にくっついてしまった核と氷を剥がそうとして自分を追い詰めることもあるだろう。作り上げた氷の像が溶け出す時や砕ける時、一緒に核の一部が零れ落ちてしまうことだってあるかもしれないし、砕けた氷の破片が核に突き刺さって核に傷をつけることも、破片によって核の一部が削がれ落とされることもあるかもしれない。

こうして零れ落ちた核の雫であったり削がれ落ちた核の破片であったりを、私はかき集める。

 

氷の像とは、神木隆之介が作り上げて演じ切ってみせた数々の役柄でありお芝居だ。


私は、氷の像としての神木くんからぽたりとこぼれた一滴やはらりと剥がれた一欠片を目にすることで、神木くんの【生】を実感できる。

 

そもそもこれは、魂を削ってお芝居をする役者にどうしようもなく惹かれる私の趣味嗜好に起因するものだ。そのギラギラした生命力が芝居を輝かせるから、魂を削って泥臭く生々しくお芝居をする人が好き。でも、神木くんは私たち大衆の目にも分かるような魂の削り方を決してしない。彼は恐らくそういう姿を見せたがらないタイプの役者で、本来の私が好きな役者の傾向にはハマらない。

だからこそ、私はお芝居をしている神木くんから一滴でも一欠片でもいいから彼が生きている生々しさを探そうとする。
そうして見つけた【核の一部】に、役者・神木隆之介という宿命を背負った一個人としての神木くんが確かに存在していることを見出す。

 

「自分は長生きしないだろう」し、「しがみついてでも役者をやり続けたい、というような思いはない 」と神木くんが語るから、私という一ヲタクは、神木くんという一個人の【生】を実感できる何かだったり彼が役者として生きていることを実感できる何かを必死になって探し、ひとつひとつ零さないように集める。


神木くんが【ずっと】を約束してくれないことが分かったから、出来る限り証を手元に残しておきたいのだと思う。

 

 

神木くんに全面降伏したものの、それと【神木隆之介という宿命】という命題は別もので、依然として私の頭にこびりついているし考えることをやめられない。これは神木くんを応援し続ける限り消えることが無いんだと思う。
この命題に向き合いながら、私は私の自己満のために神木くんを好きで居続けるし、見続けるし、探し続ける。

 

ずっとなんて無いから、終わりが来た時に感じるであろう後悔を少しでも減らすために、私は今日も神木くんから零れ落ちた【彼が生きてる生々しさ】を求める。

 

 


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私の頭に氾濫している神木くんへの思いを吐き出したくてばーっと書き殴ったものなので、もしかしたらどこかに矛盾があるかもしれません。意味が通らない文章があるかもしれません。でもここに書いた気持ちは全てほんもので、私が神木くんを通して確かに感じてきたものなので、矛盾や意味不明な箇所があってもどうかご容赦ください。

最後に、『サンセリテ』を読んで以降今年の2月から今日に至るまで、現場遠征のため上京する度、私の神木くんに対する絶望や諦念や自己満の愛をただただ吐き出させてくれた某ジャニヲタのリア友にここで感謝。私が言語化できずに一人燻らせていた神木くんへの思いを言語化して代弁してくれてありがとう。圧倒的語彙力を備えた彼女は、その才能を遺憾なく発揮し、つい先日2.2万RT3.3万イイネのバズツイートを生み出してました。流石。